徒然なる熊さんのお薦め本6

「平気でうそをつく人たち」 著者「M・スコット・ペック」 訳者「森 英明」 草思社

本書はアメリカの著名な精神科医が人間の精神内部に紛れもなく潜んでいる「悪」という一面に詳しく精神分析の手法を用いて、その概念に迫る内容になっている。勿論、本書は宗教的啓蒙書ではないので宗教観から捉える「悪」の概念をことさらに強調して書かれたものではない。あくまで普通の人々が日常生活において、心理学的に観察される「負的な心理状態」がどの様にして「悪」と呼ばれる状況に陥ってくるのか、そのメカニズムを具体的に示している。 日本語版ではタイトルが「平気でうそをつく人達」となってるのに対し、アメリカ版は「悪の心理学を求めて」となっているのはそのためである。何故この様な「テーマ」を追求しようとしたのか?・・・著者は本書の中で次の様に述べている。「心理学と呼ぶに値する人間の悪に関する科学的知識の実体が、まだ我々にはないからに他ならない。」・・・と。
何故この様な状況が出来上がったのかは、無論宗教的意義にその回答を求めその 回答に疑いの余地を挟む理由も無かったからに違いない。・・・(しかし、ここで宗教という言葉を使ったが全ての宗教で統一的な「絶対悪」という概念を見つける事が出来るのか?と言うと甚だ疑問ではあるが・・・)・・・
また、「悪」の問題というのは「善」の意味づけを明確にしてこそ初めて浮かび上がって来るものである。本書のタイトルに「平気でウソをつく人達」とあるが、この世で「今まで生きてきてウソをついた事が無い人は手を挙げて!」と聞かれて 元気よく「ハイ!」と答える人はまずいないだろう。・・・「平気でうそをつく」という日常で見られる「悪徳」は誰にも当てはまる事実である。(そう言えば昔、某連立与党の党首兼、首相が自らの献金疑惑に対し「国民の誰もがウソをつく・・・」と言った迷言を残しているが。)
しかし「悪」を科学的に研究する事は、最終的には「善」の理知的な追求に道開くものでなければならない事は言うまでもない・・・

本質的な意味

「悪」という概念を説明するのは確かに私たちだって感覚的に把握しているので、それは可能だ。「殺人」、「窃盗」、「ウソをつく」・・・(要するに反社会的行動、犯罪行為であるが)・・・しかし、この頭では「悪」と解っていても平然と正当化されて、激しく行われる場合がある。所謂「侵略戦争行為」である。日本も過去に行ってきた暗い過去がある。(しかし、何故かその事実を否定して妙な愛国心を植え付けようとする輩も出て来たが・・・)勿論、そう言った人々も 「平気でうそをつく人たち」に含まれるのでしょうが・・・(笑)

著者は「悪」の定義について本書でこの様に述べている。「悪とは人間の内部または外部に住み着いている力であって、生命または生気を殺そうとするものである。」と・・・

この様に定義すると、場合によってはこの本のタイトルにもなっている「平気でうそをつく」行為が悪ではなく、逆に「善」になる事も出て来る。こんな話がある。ある末期ガン患者があらゆる投薬治療を試みたが、何れも 効果がなく、本人も死を覚悟していた。そこで医者は一種の精神治療として、普通の「ブドウ糖液」の点滴を「これは滅多に手に入らない特別な抗がん剤ですから、必ず治ると思って試して下さい。」と「ウソ」をつき患者の容態を見たところ、その患者は医者の言葉を信じ数ヶ月の後見事にガンを克服したという。・・・医者は確かにウソをついた。それは正しくない事かもしれない、しかし、患者に「生きる力」を与えた、医者の心の底には「なんとかしてこの人に良くなってもらいたい!」 という「善意」があった筈である。・・・・・そう考えると、「ウソをつく」という行為が100%「悪」に向かうか?と問うならば、それは違う!という事になる。

「悪」という問題の本質に肉薄していこうとした場合、「ウソをつく」行為は単なる表面上の行為に過ぎない事が解る。問題はその「うそをついた」本人の動機が相手に対してどの様な目的意識を働かせていたのか?・・・という事である。明確に「相手を傷つける意思」を持って「本当の事」を言ってくる場合もある。(こう 考えると「うそをつく」=「悪徳」とは短絡的に言えない状況に陥ってくるのだが・・・・あまり混乱させてもいけないのでこれくらいにしましょう。)

話を再び「悪」の概念に戻しまして、「悪とは生命を殺す力である。」こう考えるとまた、厳密に考えていくと話は複雑になって行くのですが、ここでドイツのユダヤ人社会心理学者E・フロムの言葉を紹介しましょう。※1「人間の残虐性と破壊性は他の動物とは異なる。何故なら、食べるため、防衛のために攻撃するだけでなく 殺すために殺すという殺し屋になれるのだから。」・・・彼によれば人間は純然たる「悪」としての存在になれる!そういう一面を紛れも無く持っている!・・・という事になります。私もこの考えには同調出来る。自身の内面をさらす様で少し怖いが、確かにそうだ。(勿論実行すれば、単なる犯罪者になって人生それで終わりますが・・・)

日本の精神科医の加賀乙彦氏も次の様に述べている。※2「人の心には残虐性や殺人への願望が隠れている。さらに言えば、低きに流れる怠惰さや依存心も タップリ持ち合わせている。」・・・・「低きに流れる怠惰さや依存心」・・・この言葉の意味はどうだろう?皆さんはどの様に解釈するだろうか?「低きに流れる怠惰」というのは何となくイメージしやすいと思う。「低い生命エネルギー」、「マイナスの暗い澱んだ感情」・・・こういった心理状態から脱却しようとする時、人は自分で排除しようと活動的になる。さらに悪く言えば「攻撃的」になり、激しい「自己嫌悪」になる人もいるだろう。自己嫌悪に陥っている人はまだいい。 これが自分がこの「低い生命エネルギー」に落ち込んでいるのは他人のせいである!と思う様になったら、「他人を排除」する感情が出て来るのではないだろうか?(勿論この感情が高じて殺意に変わるのだろう)また、「他人のせい・・・」「○○○のせい・・・」と原因を外に求めるという事は裏を返せば「他に依存」している心理状態の現れでもある。

エーリッヒ・フロム(1900〜1980)ユダヤ系ドイツ人、ナチスに追われてアメリカに移住。ナチスの集団悪について論述した書籍も多い・・・

「他者」に原因を求める(自己の正当化)歪んだ帰着・・・

前段では、「悪」とは生命を殺す力である。と定義したがその力を生み出す原因として、「低く、暗い生命エネルギー」が考えられる事は述べてきた。また、その様な心理状態は「他者に依存する受動的な潜在意識」がその根底にある事も見てきた。「他者に依存する」・・・つまり、自己内省や自己の確立の道を閉ざす消極的発想である。この考えは、一見楽な道に見える。しかし、勿論自己の精神的成長は全く望めないし、結局自分の「可能性」をも狭めてしまう極めて「閉塞感」の強い歪んだ発想である。 「閉塞感」が強いと人はどうなるか?・・・・・元来、意思の旺盛な人程その感覚を打破しようと攻撃的になる!その力が高じれば当然、「殺す力」に成り得る訳だ。その力が自分自身に向かえば当然ストレスと成り病気にかかり、他者に向かえば、・・・・・相手を傷つける事と成る。

では、邪悪な人間とは?・・・・・著者は本書の中で次の様に述べている。「邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視する代わりに他人を攻撃する。」また、「彼らは自身の邪悪性を自覚していると同時に、 そうした自覚から逃れようと必死の努力をしている。」「自己内省の作業というのは確かに苦しさが付きまとうものだ。自分が正当な人間であると思いたいほど、自身の中に潜む「低く、暗い生命エネルギー」と正面きって向き合おうとはしなくなる。自分で自信を持つ事は大事だが、自分には欠点がないと深く信じる事は実は大変に恐ろしい事である。・・あなたはどう思うだろうか?

チベットの賢者の教えにこの様な言葉がある。「我々は自分自身の中に潜む利己主義と不完全さと闘うべきなのであり、他者のそれと闘うべきではない、思いにおいて、言葉、行動において他者を裁く事に使うエネルギーの十分の一でも、自分を裁く事に使えば世界は今より遥かに良くなり、人間らしいものとなるだろう」 ・・・ 正にこの通りだ!ただ私も含めて多くの人が実践出来てないだけの話なのである。何故出来ないのか?と言うとそれは結局、自身に対する「甘え」から来ているのではないか?と思うのだが・・・・・(誰だって自分が可愛いわけだから)

麻原彰晃、彼こそは典型的な「邪悪性」に富んだ人間だったのだろう。側近の幹部は高学歴者が多くいたが、彼らもまた邪悪な人間である。

悪性の「自己愛」(ナルシシズム)

この言葉は先に引用したエーリッヒ・フロムが定義したものである。その特徴として著者は「屈服する事のない意志である」と述べているが、これはどういう意味であろうか?ただ言葉のみで考えれば「強い精神力」を持ったエネルギッシュな人間、というプラス思考的なイメージがあると思う。だが、それは「不正なもの」や「非合理的なもの」に対してその様な態度を取る事は立派だが、「正しいもの」や「合理的で真実性に溢れたもの」に対してこの様な態度取れば、その人は誰からも相手にされなくなるのは必然であろう。勿論、悪性のナルシズムとは後者の場合を指す。そして、邪悪な人間というのは自分の「罪悪感」に対しても屈服する事のない意志を持つ!・・・というのだ。冷静な視点で見ればとても病的な心理状態だと解るのだが、特に他人を支配したいという願望が強い人間は後者の様な心理状態に陥ってしまう様である。(その反動としての精神の圧迫は必ずある様だが・・・)

これは歴史上の為政者達を見れば一目瞭然である。自国の先達を卑下したい訳ではないが、太平洋戦争末期の軍部指導者達が正にそうだったといえる。戦線の拡大のし過ぎにより重要軍事拠点への補給物資が行き渡らなくなり、次々と繰返される悲惨な「玉砕」戦法、10年は持つと言われた硫黄島要塞も敢え無く陥落、沖縄上陸戦、東京大空襲、国民は戦火に喘いだ。戦争の早期終結を望んでいたにも関わらず、指導者層は何をしたか?「一億総玉砕」「欲しがりません、勝つまでは。」・・・と言った無意味で無慈悲なスローガンを叫んでいた!そして最終的には広島、長崎への原爆投下という残酷極まりない結末を迎える。(そこでようやく目が覚めるわけだが)そこまで、国民の命を犠牲にし、国力を疲弊させた軍部指導者達は確かに「邪悪な人間」といえる。(後に最高責任者であった東条英機は東京裁判が始まる前に、自宅で自殺を試みるが・・・やはり反動としての精神の圧迫があったのだろう) 著者はまた次の様にも述べている。「邪悪な人間というのは、自分の意志を抑える事が不可能なまでに強力な意思を持って生まれてきた人達ではないか?」と。・・・・・あなたはどう思うだろうか?

 

次に「悪性のナルシシズム」とは逆の「善性のナルシシズム」?とは何であるか考えてみよう。だがその前に「自己愛」とは何であろうか?明確にしておく必要がある。一般的には「自己の容貌や肉体に異常なまでの愛着を感じ、自分自身を性的な対象とみなす状態をいう」と見なされている。「ナルシシズム」という言葉そのものにあまりいい意味が含まれていない。「ナルシスト」という言葉も何か「憂鬱な」「悲嘆的な」・・・といったマイナスのイメージしか湧いてこない。要するに自分があまりにも可愛い為に、他者や社会に対しそれぞれが持っている価値的な部分が全く見えてない、「独善的なうぬぼれ」が他に対する正視眼的な見方を邪魔している、・・・そんな人達を「ナルシスト」と呼ぶのだろう。(勿論、この様な人達が増えても社会の健全化は無理ですが)

そもそも「愛」という概念は「自分も他人も含めた普遍的な感情であり、自己愛=「自分だけに向かう愛」という考えは厳密に言えば成立しないのだ。・・・ この「自分だけに向かう愛」を求めるがために、先に定義した「自己の容貌や肉体に異常なまでの愛着を感じ・・・」という心理状態が生まれるのだろう。トルストイが名著「人生論」で記した「個我の生命、つまり皆が俺1人を愛してくれ、俺も自分だけを愛する事が必要な生命、俺が出来るだけ多くの快楽を得て、苦悩や死から解放される様な生命・・・」これがナルシストの考えであり、ナルシシズムという本質であると思う。(もっとも、トルストイはこの文の後にそんな生命こそ、絶え間なく続く最大の苦しみに他ならない・・・と断言しているが) では、「善性のナルシシズム」とはどの様に定義出来るだろうか?「善性」というからには何か共鳴出来る「価値的」な意味合いがなければならない。それはやはり、自己完結で終わらない他者との関わりの中で構築されていく「愛」若しくは「慈悲」といった感情であろう。

再びトルストイの言葉を引用して見たい。 「自分の幸福に対する志向を他の存在の幸福に対する志向に置き換える可能性を心の中で認めるならば、その人の生命はそれまでの不合理と不幸に変わって、理性的で幸福なものになるという事を、理性的な人間ならば認めずにはいられない。・・・どうだろうか?この箴言こそ「善性のナルシシズム」とでも呼ぶべき内容であると感じたのだが?・・・

東条英機(1884〜1948)太平洋戦争の最高責任者として、連合国側よりA級戦犯として処刑される。(勿論1人の意思で開戦に至った訳ではなかろうが・・・)

レフ・トルストイ(1828〜1910)19世紀を代表する帝政ロシア時代の偉大な作家、第一回ノーベル文学賞賞受賞候補になりながら、落選した事により世界中から非難の声が上がった事は有名である

「ナルシシズム」を超えた時、虚偽の仮面は剥がれ落ちる

人は誰でも理性的な存在であるが故に、自己愛に向かう傾向性は高いと言える。無論自分を愛せずして他人を愛する事は不可能であり、自分の幸福追求を捨て去るのは社会全体に対しての無関心を助長させて行くだけであろう。人間の真の自立には確かに「個我の幸福」の追求が必要である。だが、それは「悪性のナルシシズム」に変質する可能性を常に秘めている事を忘れてはならないであろう。

だが、この現代社会のシステムは個々の人間の欲望を最大値まで引き上げる様に組み込まれているのは間違いない事実である。(勿論、それは貨幣至上資本主義の賜物であるが)その中で、自身を真の善性に富んだ人間として向上させて行く事は至難の業である。「邪悪な人間」と聞けば、それはすぐに重大な罪を犯した「犯罪者」を想起すると思うが、彼らだけに止まらず隣り近所の人々であっても、特に犯罪者や精神障害者達に強い違和感を持つ人ほど「ちょっとしたキッカケ」で豹変して、世間を驚かせる犯罪を犯してしまうのはよくある事ではなかろうか?(ちなみに、法務省の統計によれば精神障害者による犯罪は一般刑法犯の0,6%に過ぎないそうだ)・・・・・この不幸な出来事を無くすためには、「人間は誰もが弱く、罪深く、心の奥底に悪しきものを棲まわせている」事を無意識でもいい、自覚する事が改善への一歩になる気がする。そして、他者との関わりを大事にする事だ。現代社会に住む人々は確かに多くのストレスを抱え、他人に対する関心も薄れ「キレやすい人」が多くなっているが、先に引用した精神科医の加賀乙彦氏の説によればそれは「社会の刑務所化によって増大したストレス」のせいだと述べている。例えば都会で多くの人が暮らしているアパートやマンションは閉鎖的な狭い空間が密接して集まっているが、その構造は刑務所のそれと非常によく似ているとか・・・つまり、この一般社会でも刑務所内で起こるのと同じ様な問題が発生しかねない・・・と氏は危惧しています。(確かに田舎の人間は都会人と比べると素朴で純情的な感じを受けるが・・・)

ある1人の個人が「人間としての善性」を求めるならば、自己の向上(教養を深める、思慮深くなる、礼節を遵守する等・・・)に努めるのは勿論として、やはり他者との関わりを大事にする温かみのある人間性を身に付ける事は絶対条件であると信じる。

ここで宗教的人物の言葉を引用させていただくのは多少恐縮であるが、私の心から尊敬する「日蓮」の言葉をご紹介したい。「喜とは自他共に喜ぶ事なり」・・・どうであろう?短い言葉ではあるが、「喜び」という人間の感情の本質を端的に鋭く表現していると思うのだが?・・・「喜び」とは決して自分だけで味わえる感情ではない!・・・と日蓮は私たちに教えてくれているのである。「自他共に・・・」自己と他者との共鳴し合う(また、共有すべき)感情こそが「喜び」の本質であるとの考えは、正に700年以上の前の教えとは思えぬ程の新鮮味を持って、現代の私達の胸に迫って来る感じがしないだろうか?・・・(この言葉の意味はトルストイの「人間としての個我の幸福はあり得ない」と同じであろう)・・・
これら過去の偉大な先覚者達から私達は「人間としての善性」とは何か?と自問自答してみれば、自ずと他者との関わり方について「どうすべきか?」自然と答えが導き出せるに違いない・・・

最後にこの著者の一節を引用して締め括りとさせていただく。
「善良な人が自らの意思で他人の邪悪性に刺され、それによって破滅し、ある意味では殺されもするが、それでもなお生き続け屈服しない・・・という事を私は知っている・・・」

日蓮(1222〜1282)鎌倉時代の宗教改革者、他宗を痛烈に批判した事により当時幕府の庇護を受けていた他宗派の陰謀により、様々な迫害を受けるものの「身内同士の争い」=「北条時輔の乱」「他国の日本侵略」=「蒙古襲来」の予言を的中させた事は有名である。(この予言は執権北条時頼に奏上された「立正安国論」に書かれていたが、この名著は現代日本人が後世に遺しておきたい古典書の第二位にランクされている)

参考文献

タイトルは「人生論」であるが、その深い人間心理の洞察には圧倒されるものがあり、むしろ「生命論」と言った方が良いほどの力作です。(仏教の唯識論を読んでいる様な感じ・・・)

人が「邪悪性」に向かうのは「悪魔のささやき」(己心からささやかれるもの)が起こるためであると論じているが、精神科医でありながらこの病的心理状態に陥らないためには、世界の代表的な宗教について学び、特にその経典に目を通す事が大事だと主張されています。(個人的に同意見です)

このページの最後の言葉をそのまま当てはめる事の出来るご生涯を過ごされた方だと思います。700年前の当時の権力者達は彼の教えに耳を傾けなかったのは事実ですが、今現在この「日蓮」の教えに影響を受けた人々は世界中にいる事も事実です。・・・

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