その異質な神は・・・「あらゆるヒエラルキーの頂点に立ち、愛と救いではなく、恐れに基づきただ一人君臨する・・・」と民衆に信じ込ませようとした。(このあたりからもう、イエスの教えから逸脱し始めているようだが)ハッキリとそう感じさせる一文がある。この様な一文だ。「誰を恐れるべきか教えよう。それは、殺した後で地獄に投げ込む権威を持ったお方だ。そうだ。言っておくがこの方を恐れなさい。」・・・(ルカ伝・12・5)
・・・こうなるともう、およそ「神」という感じではなく寧ろ「獄卒」(仏教で出てくる罪人を治罰する一種の鬼)・・・というイメージだ。 その様な「お方?」を恐れ(恐れるのは悪人、罪人だけだと思うが・・・)信じなさいというと・・・たどり着く先は「悪魔崇拝」に行き着く。(この事は後で述べます。)そしてキリスト教会正統派は「神を恐れる様に、地上の統治者にも恐れを抱くべきだ」というさらに歪んだ思想へと転化していく。(後に実際に政教一致した時代は暗黒時代という不幸な時代を作ってしまうのだが)・・・また、教会正統派は男女同権等もっての他だと考える。(初期の仏教思想にも若干見られたが・・・後に訂正されていく)4世紀にはあるキリスト教修道者が「神の命令に背き傲慢にも男に教えを授けた邪悪な女だったから」という理由?で女性哲学者「ヒュパティア」を牡蠣の貝殻でメッタ切りに惨殺するという事件があったという。(勿論彼の言う神とはキリストの名を借りた別の何かでしょうが・・・)既にこの時代から後に迎える「魔女狩り」の萌芽的な発想が見られるのは何とも冷酷な話ではないか!
後、現代では甚だしく非常識(というか科学的に考えても絶対にあり得ない問題として)「キリストの復活」という大問題がある。(つまり復活したのはキリストの肉体なのか、霊魂なのか・・・という点)ここで、教会正統派は「キリストの肉体」だと主張した。(ゾンビじゃあるまいし・・・でも、洋画はこの手のゾンビものが大好きなようだが)その理由を女史は明確にこう述べている。「教会正統派は、まず復活したのは肉体だがら、「復活」は 一度しか立ち会えない奇跡である、そしてこの「復活」 に立ち会ったイエスの使徒、あるいはその正当な後継者のみが「真のキリスト」を知る事が出来る。・・・つまり、宗教上の「権力」と「権威」を一握りの連中で独占し、主従関係を強化するためにその様に主張したのである」と・・・(鋭い視点だ!)
だが、その思想は「神を知る道を狭める事」でもあった。(若しかするといわゆる「エリート思想」というのはこのへんから来ているのかもしれない) だが、復活したのは文字通り「キリストの肉体」であると主張する思想を「愚者の信仰」と呼ぶ理性的な一派がいた。ご存知※1「グノーシス主義者」である。 彼らは復活した肉体?を 実際に見た者などいないし、第一目撃者は「ペテロ」ではない、と反論した。女史によれば彼ら「グノーシス主義者」の主張とは次の様なものであったという。「復活したのが「霊」だと信じることは「性別」や「身分の違い」を問わず、誰でも夢や、幻の中で「神を目にし」実感出来る事を意味する。誰でも神に近づき、自分と神との絆を強める事が出来る」と・・・・正統教会派は「自己探求や個人の経験を通して神を知るなどもってのほか。」と決め付けていたが、グノーシス主義者は「教会ではなく、自分の心に目を向けよ、そうすれば真理とグノーシス(古代ギリシャ語で「知識」)が見出せる。自分を知ることが神を知る道なのだ」また、こうもいっている。「あなた自身を出発点にして、神を求めなさい。悲しみ、喜び、愛、憎しみの原因を知りなさい。・・・それをとことんまで追求すれば、あなた自身の中に 神を見出すでしょう。」(この様な主張は仏教思想にも見られる。所謂「観念観法」である。)
・・・この一見して「極めて理性的」と解る「グノーシス派」だったが、正統教会派は「異端」であると勝手に裁断を下し、無残な「宗教弾圧」に乗り出していくのだから、愚かという以外にない。・・・・・
それは、「イエスを殺したのは誰か?」という信徒にとっては極めて重大な問題についてだった。・・・イエスがまだ生きていた頃はユダヤ人とローマ人の間には緊張状態が続いていた。母国を奪われたユダヤ人がローマ人による不当な弾圧( ユダヤ人による集会の禁止、タルムードの研究、研鑽の禁止等・・・)に対し 彼らは怒りを募らせていた。そんな状況下でイエス本人は、恐らくは反政府的な、レジスタンス的活動を支持していたのであろう。(ちなみにヘブライ語でもギリシャ語でも「キリスト」という言葉は「王」や「指導者」の称号を意味する言葉だったという)その様な「歴史的事実」をもみ消すために、教会正統派は「イエスの死の責任」をローマ人ではなく、ユダヤ人に押し付けた・・・と女史は断言している。そう責任転嫁することによって、帝国の権力者達のご機嫌を持つ事が可能になったというのだ。(何という浅ましさだろうか!・・・)
実際はユダヤ人ではなく、ローマ人がイエスの反政府活動をネタにして彼を処刑したと見るのが道理であると断言している。(磔の刑はローマ人が扇動家を処刑する時の一般的な方法だったという)この様な悪魔的狡猾な、「すりかえ理論」により教会権力者達は帝国内の権力者達の厚い庇護を受けていくのである。
ローマでの狡猾なる陰謀により、正統派教会はいよいよその地位を強めていく。初期の頃は一口に「キリスト教」といっても、「グノーシス派」、「マルキオン派」、エジプトの「コプト派」、シリアの「ヤコブ派」・・・様々に存在していた。そもそも女史によれば、「異端」( Heresy)の言葉の語源はギリシア語の(hairesis)で「選択」という意味を持つという。つまり初期の頃は色々な「選択肢」があった。「異端」=「邪説」ではなかった事を意味する。
しかし、教会正統派の指導者達は人々を服従させようとして、やがては暴力による「異端弾圧」に乗り出していく・・・だが、最初から非道な暴力行為により人々を服従させようとしたのではない。まず、教義により「人の心」を押さえつける事から始めたのだ。それはどのように?・・・・・「人間の自由意志」を否定し、「性」の快楽を非難する事から始めたのだ!(※これは現代カトリック教会でもその名残と見られる制約がある)
「人の自由意志」に関する論争として「ペラギウス主義」とアウグスティヌスとの論争がある。ペラギウス主義では、「人間には意思の自由があり、自分の行動には責任がある。救われるか否かは本人の努力次第、キリストの贖罪をたよってばかりではいけない。」と主張した。これに対し、かの有名なアウグスティヌスは「人間の運命はあらかじめ決まっている、個人の力ではそれを変えることは出来ない。救済は完全に神の手に委ねられている。」と正反対の意見を主張した。(かなり他力本願である。この様な思想は人間の 自発的な意思を完全に挫くものである。最もこのアウグスティヌスの思想が主流となり、長い暗黒時代の幕開けを導くのだが・・・)
また、彼はハッキリとこうも記している。「人間は服従すれば上手く事が運び、創造主の意思ではなく自分の意思に従えば、苦痛を味わう様に生まれついている」・・・「創造主の意思」・・・それが※2イエス・キリストの意思であればまだ、純心な信者は救われる道が残されているのだろうが残念ながら、彼が述べる「創造主」とは「権力志向の強い狡猾なる詐欺的意思」に限りなく近い「存在」であろう。また、正統派教会は生命の「輪廻説」を否定し、「人間の人生は一度しかない」と主張した。(これは、言うまでもなく「仏教」そして「ユダヤ教」の教えと完全に異なる。釈迦は生まれながらに付いての「不幸」や「障害」はその人の「過去世」にその原因を求め、その消滅の方法をも説いたが、・・・)つまり、次の様に説く事によって教会は一般の信者達に対して「自己の絶対正当性」と「絶対権力」を手中に収めたのである。
「自己で自分自身に備わっている資質や様々な可能性について思索する必要はない、君の運命は最初から「神」?により定められている、「過去世」というものも存在しない、君はただ、我々教会の人間に黙って服従さえしていればそれでいいのだよ・・・」と
その後、絶対権力を収めた正統派教会は 「医学」「科学技術」「自然科学」「教育」「史学」「芸術」「商業」の分野の停滞を招く張本人となる。いわゆる「暗黒時代」の幕開けである。女史によれば、「この時代に教会は私腹を肥やしたが、文明と名の付くものは殆んどすたれてしまった」・・・・ここで、 女史は私達が全く知らなかった事実?(私個人はこの裏付けを取る事は出来なかったが・・・誰かヨーロッパの中世に詳しい方でも調べて下されば・・・)6世紀に既にあの「ペスト」は大流行しており、その犠牲者数は・・・・・何と「約1億人」だったというのだ!(誰か証明する事の出来る方がいれば是非、教えてほしいものです)
・・・・この事を契機に教会は「ギリシア・ローマ医学」に異端宣告を出し、「医療」分野にも口出しする様になったという。「神は教会の権威に従わなかった者にペストという罰をお与えになったのです。」と、民衆の「恐怖心」を煽りながら巧みに自己の権力拡大を狙っていった。そして教会が人々に広めた治療法というのが、「瀉血法」というものだった。(今でもあるようだが)この治療法は6〜16世紀の間あらゆる病気に効くという触れ込みで、盛んに行われたらしい。そして毎年何万人もの犠牲者を出していたとか・・・・
※3、余談だが11世紀にヨーロッパ諸国による (フランス、イギリス、)軍事的侵攻だった「十字軍の遠征」では、アラブ人の観察による当時のフランク人の慣習等が記された本等が残っているが、その中で西洋人による「医学療法」についての描写が出てくる。ちょっと抜粋してみよう。・・・・・12世紀においてフランクは「科学・技術」の全領域においてアラブより非常に遅れていた。そして先進の中東と未開の西洋との格差が一番大きかったのは医学の分野においてだった。(以下アラブ人貴族ウサ−マの記述)「・・・・ある日、肺病の女が私の前に連れてこられました。そして、フランクの医者が来て診察して言うには「頭の中に悪魔がいて、この女に惚れている。髪の毛を剃れ!」毛が刈られました。女はそれから病状が悪化すると今度は「まだ、悪魔が頭の中に住み着いているからだ!」と断言してカミソリを取ると、頭部を十字型に切開して頭蓋骨を剥き出しにして、塩で「ゴシゴシ」と揉むのです。・・・当然女はすぐに死にました。・・・・・」この様な馬鹿げた治療法が行われていたのだとすると、・・・・本当に「開いた口が塞がらない」・・・・
他に特筆すべき事として、正統派教会による「歴史の改ざん」が挙げられる。女史はアメリカの歴史家であるダニエル・ブアスティンの「キリスト教徒に必要なのは、イエス・キリストだけを崇め救済の約束を信じるという姿勢だった。歓迎されるのは批判ではなく軽信(若しくは盲信・・・と言った所だろうか・・・)だった。歴史を学問と考えるのは異端者だけだった。」という言葉を引用して、自分達で勝手に 本当の歴史を改ざんして、都合よく合わせてしまえば現在の生活に不満を抱く者の批判を上手く」かわす事が出来ると計算したのだと、言っている。・・・・さらに、教会は莫大な数の「文学作品」を焚書したという。391年、キリスト教徒は70万の蔵書を誇る「アレクサンドリア図書館」を焼き払った。(何かキリスト教徒にとって不利になる書物でもあったのだろうか?)そして、昔からあった学問所は閉鎖されていった。当然のことながら一般人への教育は断たれてしまった。暗黒時代には教育と呼べるものは殆どなかったが、教会関係者だけは依然として教育を受ける事が出来たという。(そして、強国の王達はそれを言い訳にして聖職者に行政をまかせる事になるのである。)
当たり前の話だが、「宗教」とは本来人の「精神」若しくは、「魂」を救済に導く羅針盤の様な存在であるべきだと思うが、この「異端審問」という思想の化け物が一人歩きした時代は、「宗教」はむしろ人々を「抑圧」し、「狂気」に導く「麻薬」の様な意味合いを持っていた。この時代は本当に長かった、現代でも「政教一致」という言葉に過剰な反応を示す輩はこの時代が如何に「矛盾」に満ち、「欺瞞」に溢れ、「恐怖」が渦巻いていたかをある意味良く知っているからだと思う。
・・・1578年当時の異端審問官のフランシスコ・べナはこう言ったという。「宗教裁判と刑の執行の一番の目的は、被告人の魂を救う事ではなく公益をもたらし、人々に恐怖を植えつける事であるのを忘れてはならない・・・」(当時からすでに神ではなく、悪魔に仕えていたらしい。)この様な異端審問官達は、「検察官」と「判事」の役も兼ねているので「判決」がひっくり返される事はまず、なかった。(異端の疑いがかけられると必ず有罪となった)そのため、裕福な資産家達は起訴を免れる為に審問官達に、賄賂を贈ったりして上手く身の保身を計っていたという。(この手の話はいつの時代にもあるようだが・・・)そうして審問官達は誰よりも「甘いしる」をすすり経済を破綻させていった。当時のある著述家はスペインのトレドの生活ふりを次の様に語っている。「説教者はあえて説教しようとしない。勇気を起こして説教する者も、無難な話題にしか触れようとしない。その理由は二人の愚か者が人々の命や名誉に関わる情報を流し、警官がいつも 監視しているからだ。祖国を捨てて国外へ飛び立つ金持ち連中が増えている。宗教裁判所の役人達がいつ押しかけてくるかと、びくびくする生活に終止符を打つためだ。」
・・・・女性達はさらに怯えて暮らさねばならなかった。それはご存知「魔女狩り」の嵐が吹き荒れていたからである。(この狂気の弾圧により殺された女性達は、900万人にも上るという。・・・ある識者は「それは西洋文明が生んだ身の毛もよだつ悪夢、最も卑劣な犯罪、最大の恥辱」と断言しているが・・・)私もこの様な最悪の女性差別、女性蔑視は他の文明圏に例を見ない理解しがたいもの、としか言い様がないと思う。1592年、教父のコルネリユス・ロースの著述に次の様な言葉が残っている。「女達は哀れにも厳しい拷問を受け、身に覚えの無い事を無理矢理告白させられる。・・・そして無実の人々は残虐に処刑され(大抵の場合、生きたままの火刑)命を奪われるのだ。それは人間の血から金や銀を生み出す新しい錬金術なのである。」と・・・(彼もまた悪魔に仕えていた様である。)
勿論、正統派教会は(カトリックもプロテスタントも)魔女はサタンの手先なのだから、容赦なく処刑しても差し支えないという狂信に染まっていたからであるが、教会側が「魔女狩り」を広めたより根本的な理由として「悪魔」の存在を人々に暗示させ、脅かして、従わせる為であったのを見逃してはならないと思う。
ヘレン女史は本書で次の様に結論付けている。「悪魔の存在を信じさせれば、人々に無力感を与える事が出来る。それは正統派がよく使った手口だった。人間が抱く悪意や敵対心を悪魔のせいにしてしまえば、人間は責任を負わなくて済む。だが、責任に対する力まで失ってしまうのだ。人間は自分に責任があると解れば、何とかしようとして力を発揮する。だが、自分の心の中ではなくどこかに存在する悪魔に責任があると解れば、怯えて尻込みするか、悪魔とおぼしき者を攻撃するしかない。人間には自由意志がないと正統派教会が人々に信じ込ませた様に、宗教改革者も悪魔の存在を人々に信じ込ませて「無力感」を植え付け自分の意のままに操ろうとしたのだ。」と・・・・この様に民衆の信仰心を操った「魔女狩り」は人類史上最悪の出来事の1つとなったのである。
「恐れ」と「権威」による民衆の服従を要求し続けた「教会派」は正当な科学的実験による正しい「法則」や「公式」、またそれらを発見した科学者達さえも自己の権威を脅かす存在と解ろうものなら容赦なく弾圧してきた訳だが、自己の教えが道理に反していると万人に判る様な場合は狡猾に教義内容を改竄して来た事は、よく知られた事実である。
だが、逆に教会側の思想の影響を受け自己の科学的信念を形成していった科学者も少なくない。(デカルト、ニュートン、・・・)教会が「天(天界)と地(地上世界)は分かれている」という思想のもと、科学者達は「精神と物質は分離して存在している」との信念を抱くようになった。 その事を最初に主張したのはデカルトであったという。つまり、神と物質界が切り離されている様に、意識と物質も切り離されていると考えた。また、ニュートンは「万有引力の法則」の発見により物質は意識とは関係なく動くという不動の確信を得た。(但し、良く知られた話だがニュートン自身晩年ある後進の研究者に「私が発見してきた法則というのは、確かにそれは価値あるものだったのかもしれない。だが、私は例えるなら砂浜で遊ぶ少年の様であり私が発見した事柄は砂浜に埋もれていた貝殻や、珍しい石にも例えられよう。だが、私が本当に知りたかった「真理」というのはすぐ目の前に広がる海だった。(全部知り尽くした訳ではないのだ。)」
おおよそ近代科学者達は人間の意識が物理現象に影響を及ぼす事はないと信じていた。(及ぼす事が出来るのは悪魔のみと信じられていた)
だが、「物質は完全に無生命で無反応の独立した存在である」という考えにも現代の科学は遂に疑問を投げかける事になる。波動関数を研究していた科学者達は物質界が「心的」でもあり、「物的」でもある事を遂に発見する。(このサイトを訪問して下さっているあなたが、もし西洋文明の熱烈なる崇拝者だとしたら・・・信じられないかもしれませんが、この様な思想「物質と精神は共通のエネルギーを持ちお互いに干渉し合う事も可能である」という思想は、すでに2500年前仏教の創始者である「釈尊」によって説かれている事である。・・・いわゆる「色心不二」論・・・仏教ではこの「不二」や「空」という概念が現代の最新科学でも「論理構築」の上で多大な影響を与えて来ている事に対し一人の東洋人として喜ばしい限りだと思っている。かなり私の主観が入ってますけど・・・もしあなたがこの分野に興味があるようでしたら、※に紹介する本でも一読して見て下さい。
この様に従来のキリスト教的世界観に基づく「物質と精神は完全に分離している」という信条は誤った世界観であり、この考えに固執するならば返って、あらゆる自然界における現象説明においても多くの不利益な摩擦を生む可能性が高いと言わざるを得ない。・・・
さて、・・・しかしキリスト教的世界観が犯した「最大の過ち」は恐らく人と人とを激しく対立させた(その淵源が異端審問にある事はいうまでもない)事に他ならない。初期の頃は「グノーシス派」「マルキオン派」等の一派を弾圧し、中世の頃は南部フランス、ランドック地方における「カタリ派」の大虐殺(約100万の死者を出したらしい・・・)さらに、十字軍によるアラブ世界に対する軍事的侵略(これもやはり死者数百万を数える・・・)長期に亘るユダヤ人に対する迫害(勿論、迫害すべき正当な理由等ない)・・・人と人を結びつけるどころか、「分断」させ、互いに憎しみ合い、歪んだ世界を生み出してきたのは、紛れもなくキリスト教会だったのだから。
・・・勿論、この様な矛盾に鋭い目でその本質を見抜く言葉を残している優れたヨーロッパ人作家もいる。※5ノーベル文学賞作家でもある「ヘルマン・ヘッセ」は例えば、中世の宗教改革者としてその名を知られている「マルティン・ルター」に対し次の様に批判している。「彼のユダヤ人の事を書いた言葉は、暴虐と殺人狂自己正当化の点では、ヒトラーやスターリンも全く顔負けです。」と。また、彼は東洋思想(仏教、ヒンドゥー教、老子思想)に強く惹かれ釈尊をテーマにした小説(シッダールタ)等も書き残しているが、フランスの作家ロマン・ロランに対して次の様な書簡を送っている。「ヨーロッパの指揮の下で人間が互いに殺しあっている限り、人間をどの様に区分けする事も疑わしく思えるのです。私はヨーロッパを信じません、 信じるのはただ人間だけ、全ての民族が関与している地上の魂の王国だけです。それを最も気高く体現してくれているのはアジア人です。」・・・(超一流の作家は私達東洋人にこの様な希望を見出してくれていたのだ!ありがたいことではないか。)
私達は多分に「イメージ的な要素」で、(例えば、やはり西洋人は東洋人より見栄えが良い、優れた芸術家、文化人も多い、(実は本当のキリスト教信者(正当派教会の教えを絶対とする・・という意味)でよくその名が知られている人物は殆どいないのだが、前述のニュートンも「キリスト」本人に対する見方は教会のそれとは異なっていた・・・多分彼がもう少し早い時代に生まれていたならば、間違いなく「異端審問」にかけられていただろう・・・)という理由で、だから西洋文明は優れている=「キリスト教」も優れた教えに違いない・・・と信じている節がある。
・・・だが、アメリカという国に目を向けて見ればよりハッキリしてくる事がある。それはアメリカは確かに現在「プロティスタント」の信者を多く抱えるキリスト教国家である。そして「民主主義」の教えを掲げた国家でもある。(本当にそうかどうかは別のページで詳しく考察していきます。)・・・だが、そのアメリカ人が愛して止まない「デモクラシー」というのはキリスト教正当派が生んだものではなく、むしろそれに反する思想集団(実はフリーメーソンであるが)が打ち立てたものである。1796年にアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントン(実は彼もメーソンのメンバーだが)は「アメリカ合衆国政府は いかなる意味においても、キリスト教に基づいてはいない・・・」という一文を残している。・・・・・・・・
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