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徒然なる熊さんのお薦め本10・「秘密結社 フリーメイソンリー」  著者「湯浅慎一」  出版社「太陽出版」

「秘密結社フリーメイソン」・・・誰もが一度は耳にした事がある名前であろう。だが、この組織の設立目的、歴史上演じてきた「役割」、目指すべき指標等、について詳しく知っている人間はあまりいないかもしれない。・・・勿論、その様な事を知っていなくても私たちは普通に日常生活を送る事は出来る。知らなければ「破滅する」・・・なんて事は無いかもしれない。(今、すぐには)しかし、この秘密結社が世界の政治、経済、、芸術、娯楽産業にまで幅広く多大な影響を与えている事実を無視、あるいは理解しようとしないならば、私達日本人は彼らに「家畜」の如く扱われ、知らぬ間に「洗脳」され(勿論、彼らにとって都合のいい様に)何も世の中の「真実」を知る事なく、「使い捨て商品」の如く利用した後はゴミの様に捨てられる・・・(彼らと密約を結んだ一部の人間を除いては・・・いや、そんな日本人は実際にはいないかもしれない)という憂慮すべき事態にならぬとは限らないのだ。
「知は力」である、知る事が自己を防衛する事にも繋がるはずである。この組織は確かに「秘密性」を帯びているので、社会一般に起きている事件でも何ら関係が無い様に見えるが「事実は残念ながら全く違う!」この事を証明していくために、今回は上記に上げた書籍を中心に「メーソン」についての具体的な考察を試みた。

その設立時期と近代の歴史について

「ヤーヴェの目」別名「万物の目」「フリーメーソン」の象徴的シンボルとしてよく出て来る。このピラミッドの上部に書かれている文字の意味は「我らが事業に栄誉を」(しかし、このシンボルは1ドル紙幣の国璽に使用されているが、アメリカ国内にピラミッドの遺跡等皆無だ・・・(笑)下部の旗に書かれている文字の意味は「時代の新秩序」、ピラミッドの礎石にあるローマ数字は「1776年」この年「光明会」=「イルミナチ」(イルミナティ)が結成されたという・・・国璽にこの様な象徴的な数字や記号が使われている事により、改めてアメリカという国は「メーソン国家」であり、「イルミナティ」(フリーメーソンの組織内でも、特に国際的人脈と金融資本力を持った上位グループと考えてよいと思う)によって成り立っている・・・と考えられるのではないか?

 この秘密結社の起源を定めようとすると、実は正確な年代を決める事は出来ないという・・・だが、その言葉の意味する所から推察していくと「メーソン」とは「石工職人」であるので、古代、石を使った彫像や神殿をたくさん作った人達といえば、紛れも無く「古代エジプト人」達であり、代表的な建築物としては「カルナック大神殿」

また、中東シリア国にある「パルミラ遺跡」

等、優れた石加工技術を持っていた(いや、今でも持っているのかもしれないが)人間は中近東地域に住んでいたと思われる。しかし、彼らが「フリーメーソン」の起源とするのは、無理があるし、第一、入会の条件である「全ての人間に一致する宗教を持ち・・・」といった抽象的な規約は作らず、「全能の神アッラーを信奉する者・・・」とイスラム的条件を作るはずであろう。だが、ここで1つ留意しなければならない事がある。

それはこの「フリーメーソン」が秘密性を帯びているという理由として「人前に公開したくない(若しくは出来ない)儀式」を同志の連帯感を高めるために用いている事が考えられるが、これは元を探ると「エジプト死者の書」やユダヤ教の秘密の教え(ユダヤ密教)としての「カバラ」を基にして彼らなりにアレンジした儀式を考案してきた様である。このカバラを手短に説明するのは難しいが、人間の意識を絶対なる世界にまで高め天上界に住む神々のレベルに近づけていこうという密教である。(だが、フリーメーソンで実際に行われている儀式というのは残念ながら人間の生贄を用いた残虐なオカルト儀式と化している。「切り裂きジャック」の事件もこの秘密の儀式に関係している様である。・・・その目的は本物の悪魔をこの世界に呼び出すためであるという。本来のカバラは決して悪魔を呼び出す様な秘術ではない、という事を認識して置く必要がある。)

(このフリーメーソンが如何に悪魔的な儀式に魅了され、魂を奪われているかという事については、後で述べていきます。)

さて、話を元に戻しまして「メーソン」という言葉がヨーロッパの記録に出て来るのは1396年に建てられたウェストミンスター寺院に「フリーメーソンと呼ばれる石工職人・・・」と記されているだけで、あまり記録には出てこない。彼らメーソンが中部東ヨーロッパで建築に関わった建造物として、よく知られているのは「ケルン大聖堂」

がある。中世の旧フリーメーソンはスコットランド、スチュアート家に古いメーソン的伝統がよく保存されていた様で、当時の「古い掟」には「もし身分、名声、富、学識を有する者が結社に入ろうとすれば、必要な調査を経て非常に丁重に彼らを迎え入れなければならない。」と石工以外の人間の加入について規定している。(当時は最先端の建築技術を持っていた彼らに貴族達は何らかの保護を与えていた様である。)
その後、頻繁に歴史舞台に出てくるのは1717年6月24日ロンドンにある幾つかのメーソンの寄り合い=「ロッジ」が1つの「グランドロッジ」という名で統合されてからである。このときの会議の名誉議長にクリストファー・レン卿が就き、その横にはジョン・デザギュリエ博士が座った。ここから「近代フリーメーソン」の歴史が始まり、「フリーメーソン憲章」が制定される。その第1章は「神と宗教について」書かれている。そこではメーソン員は「愚かな無神論者」や「不信心な自由思想家」であってはならないと定められている。

では、このメーソン的「神」とは何であろうか?・・・それは他の規約に「キリスト教徒」や「ユダヤ教徒」、「イスラム教徒」、「仏教徒」でも会員になれる事から解る様に特定の人格神を意味していない。抽象的な表現になるが、「宇宙を創造した最高の理性」・・・これを「全ての世界の全能なる建築士」と呼び、これが彼らの「神」となる。従って、メーソンは「理神論的性格」が出ている秘密結社という感じであろうか?・・・この「宇宙や自然の法則の中」に「神」を見るという発想はユダヤ教の中にも見出せるが、フリーメーソンが「ユダヤ人」によって作られた組織ではない事ははっきりしている。(勿論、結社内にユダヤ人はいるであろうがその事によりフリーメーソンが色々な陰謀に加担している事にはならない。しかし、思想、哲学的に影響を受けている事は確かな様である。) 但し、この秘密結社が現実として一般市民へと開かれた啓蒙運動を展開すると共に、他方ではこれとは逆に閉鎖社会にこもり、そこで秘教的神秘主義の儀式に命を捧げていた輩もいた事を忘れてはならない。・・・・・

キリスト教会との関係

カトリック教会はフリーメーソンをこれまで基本的には「悪魔の教会」と見なしてきた。(もっとも、カトリック教会も魔女狩りや異端審問裁判等により罪無き何百万人の人間たちを殺してきた悪魔的行為はしている訳だが)メイソンは1738年、教皇クレメンス12世の最初の破門令から1983年の教皇ヨハネ・パウロ2世在位の聖庁信仰省の声明まで歴代の教皇の回勅により17回以上も「破門」され、また、200回以上警告ないし干渉を受けてきた。これは何故であろうか?・・・・・先ず考えられる事として、フリーメーソンが当時教会から異端のレッテルを貼られた「科学者」達を擁護し匿った形跡があるからだろう。フリーメーソンの象徴的マークのG

このGは「GOD(神)であると同時に「GEOMETRY」(幾何学)を象徴しているという。建築学は数学と科学の産物であり、メーソン達は自己の建築技術を通して「神」と「科学」の融合を目指していた。教会から見れば正に異端者に映ったのだろう。また、カトリックの根拠になっている「新約聖書」を排して、「旧約聖書」を取り上げ、そこから彼らの「憲章」を作っていったので多分に「ユダヤ的要素」があると見られ非難、攻撃の理由とされたのだろう。他に一般的な理由としてフリーメーソンの指導者層は(実はイルミナティという・・・)サタニスト(悪魔崇拝者)であるからだ・・・と言うのだが、これは実際に彼らメーソンが歴史上どの様な行動を取ってきたかを見れば解ると思う。※1少し抜粋しよう。

1789年の「フランス革命」とはカトリック教会とフランスのカトリック教徒に対して「フリーメーソン」が仕掛けた戦争であった。「この時のメーソンのメンバーで死刑裁判官だったジャン・バチスト・カリエは13000人のカトリック教徒の死刑執行を命じた。そして、彼らはこの刑のために建造された船に乗せられてロワール川で溺死させられたのである。・・・

「1793年12月23日、フリーメーソンのフランソワ・ウェステルマン将軍はサヴィニーのカトリックの村落を襲撃し、数百人の女性や子供を殺害した。ウェステルマンは「ガキどもを馬の蹄にかけ、女たちを殺してもう山賊を産めない様にしてやった。・・・」と自慢している。

さらに、1794年には、フランス革命に参加した将軍の1人で、やはりフリーメーソンのルイ・マリー・ツーローはル・サ・ブローニュの村で数百人の子供を殺害するように命令した。・・・

もっとも、この様な悲惨な目に遭ったフランス「カトリック教徒達」も11世紀から12世紀にかけてはかの「十字軍遠征」において(勿論、これはアラブ地域に対する侵略戦争であったわけだが)アラブ人兵士を釜茹でにして殺したり、子供たちを串刺しにして焼いて食べた!・・・といった蛮行を重ねていったわけだが・・・

・・・この様に非戦闘員に対する容赦ない殺害、拷問はメーソンの規約にある「善良にして正直な男子であれ」、「名誉と公正を重んずる男子であれ」というモットーに 「堂々と反している事は言うまでもない」・・・・・

ちなみに何故彼らメーソンは「カトリック教会」に対して迫害を加えていったのか?・・・それは彼ら自身がメーソンの思想をキリスト教に浸透させる手段として、「プロテスタント主義」を選んだからである。そうすると、「メーソン国家」であるアメリカに多くのプロテスタント信者が存在する理由が頷けるというものだ。現在、アングロ・サクソン諸国のプロテスタント司祭のほとんどがメーソンに入会しているという。・・・(また、彼らメーソンはカトリックの総本山であるバチカン内に多数のメーソンのスパイを潜入させ、自分たちが不利にならない様に情報操作したり、多くの信者から集まる莫大な資産を巧妙に管理しているという。これにはイタリアのマフィアも絡んでいる様だ。「P2ロッジ大スキャンダル」が有名)

「メーソン」と関係の深かった芸術家達・・・

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年8月28日 - 1832年3月22日)

 この誰もが知る大文豪がフリーメーソンに入会したのは、30歳の頃とされている。入会に至る動機としては同時代に活躍した哲学者「ヘルダー」や「ボーデ」らに何らかの影響を受けた様である。晩年の作品「ファウスト」にも明確に示されている様に、彼は錬金術、オカルトに対する関心は早くから強く当代随一のオカルティストであった。後にヘルダーと共に「啓明会」(「イルミナティ」現在ではフリーメーソンの上層部として、指導的役割を果たしている)にも入会。「アバーリス」という会士名を得ている。だが、当時から限られていた人々の間には「啓明会には政治的陰謀が存在する」と噂されていたという。(ゲーテ本人はその事については無関心であった様だが) また、彼はナポレオンの崇拝者でナポレオンがドイツ軍を破り、ワイマールにやって来た時は自宅に招き入れ、対談したという。(ちなみにナポレオンは 「フリーメーソン」の保護者であった!)両者はそこでどの様な対話をしたのか?興味が尽きないが・・・

「メーソン」の会員としてのゲーテ・・・を把握して彼の大作「ファウスト」を理解していくならば、多くの点で秘教的なイメージやキリストを救済者とは見なさない部分等、メーソン的思想からの影響を見て取れる。(悪魔メフィストフェレスとの契約はメーソン的思想からはどの様に解釈されるのだろうか?)ゲーテ自身は「ほとんどの観客はこれを楽しんで観るだろうが、しかしメイソン達はここに込められている崇高な真の意味を理解するだろう。・・・」と述べている。

フリードリヒ・フォン・シラー(1759年11月10日 - 1805年5月9日)

シラーはゲーテとは違い正式に「フリーメーソン」に入会したのではない。だが、メイソンの掲げる「自由」「平等」「博愛」といった思想に強い共感を覚え、様々な「戯曲」「詩」、「小説」等の作品を残している。シラーの作品と言えば、ベートーベンの第九交響曲「合唱付き」で歌われる「歓喜によせて」が私達日本人にとってもよく知られているが、この詩の元々のタイトルは「自由によせて」だった事はご存知だろうか?つまり、この詩はメーソンの「ロッジ」(組織の事)賛歌として作られたのである。・・・しかし、この詩はフリーメーソンの精神を美しく表現しているとは言えず、時代錯誤的表現であると酷評されている。ゲーテとは1788年に知り合いになり、互いに良き友人となる。しかし、ゲーテがイルミナティに入会したり秘教的な汎神論に傾倒していったのに対し、シラーはひたすら自由に憧れナポレオンを軽蔑した。シラー自身は手紙の中で「私は啓明会士(イルミナティ)でもメイソンでもないが、若し互いに兄弟となる事で1つの道徳的目的を共有し、またこの目的が人間社会にとって最も重要であるならば、・・・」と述べている。

公明さを誰よりも好んだ自由主義者シラーは、秘密結社の非公開の儀式や陰謀や魔術を嫌いそのために入会にまでは至らなかったのであろうが、「降霊術師」という戯曲ではそういった部分を取り上げている。また、彼は秘密結社の人々達を次の様に評している。「人々は悪心を懐く者達が計画し、達成しようとするその目標の大胆さに驚きまた、その目標の達成を確実にするために結集するその手段の奇抜さに驚くだろう・・・」と意味深な言葉を残している。シラーが決して秘密結社に入会しなかったのは、結社の真の目的、信条、そして彼らが「神」と呼ぶものの「正体」について気付いていたからではないか?・・・と私は考えるのだが?

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年1月27日 - 1791年12月5日)

モーツァルトが「フリーメーソン」と関係があったという話は有名である。その謎とされている死についても様々な暗殺説等飛び交っているが、彼自身「自分はメーソンの一員である」という 自覚はかなり強かったという。・・・モーツァルトがメーソンのウィーン・ロッジ「べネフィスイエンス」に入会したのは28歳の頃であるが、17歳頃からフリーメーソン的な曲を作っていたらしく、早い頃から関心を持っていた様である。彼が残した多くの作品中にもメーソンが象徴的とする数字で大事な意味を持つ「3」(3はブルーロッジの「自由」「平等」「博愛」という徳の3要素、また「美」「知恵」「力」の3徳、入会式では戸を3回たたく・・・等)を駆使した楽曲やオペラを残したりしている。特にメーソン的色彩が色濃く出ている作品がオペラ「魔笛」であると言われている。このオペラの台本を書いたのはメーソンであるエマヌエル・シカネーダーであるが、物語の主題は悪、闇、世俗、復讐、女性的饒舌を体現する「夜の女王」に善、光明、聖性、寛容、沈黙、新体制を体現する大司祭ザラストロが対抗して勝利を収めるというものである。そして、夜の女王はフリーメーソンを迫害する「マリア・テレジア」、ザラストロはウィーンのフリーメーソンリーの指導者「ボルン」を意味している、極めて政治的なオペラであった。また、彼は自分の手で1つの「ロッジ」を創設しようと考えていた様であり、先の「魔笛」でもメーソンの「秘密の儀式」について連想させる様な「場面」を出してみたりと、回りの反感を買った様である 。・・・そんな中、彼は「誰かが自分に毒を盛っている」という被害妄想に取り付かれ実際にひどく衰弱していった。彼の最後の作品はあの「レクイエム」であるが、やはりそれは自分自身のために作っていたのだろうか?

12月5日にモーツァルトはこの世を去るが、 彼の埋葬はメイソンで「イルミナティ」のゴットリート・ファン・シュヴィーテンが引き受けたが、死因も確認されぬままほとんど金も掛けずに、他の多くの死体の上に積み重ねる様にして葬られたという・・・・・(そして、妻コンスタンツと息子は彼が毒殺されたと信じたのだった)だが、誰によって?・・・・・

フリーメーソンとヨーロッパ王朝との政治的関係

1.イギリス王朝との関係

近代フリーメーソンの体制を確立したのは英国であったが、中世の頃メーソンは権力者達によって禁止されたり迫害されたりした。カトリックの女王「メアリー」は1555年から1558年の3年間にかけてプロテスタントとメーソンを残酷に迫害していた。この3年間でトーマス・モアや5人の司教、21人の貴族、8人の上流紳士、84人の一般市民、100人の農民、55人の婦人、5人の子供が宗教的な理由で火あぶりにされたという。この迫害でメーソン達は再び地下に潜り、秘密性を保持していかなければならなかった。

フランシス・ベーコン(1561年1月22日 - 1626年4月9日)

 この中世を代表する哲学者は自然科学の分野でも有名だが、この彼がフリーメーソンの会員だったとは本書を読むまで私も知らなかった。・・・世に残した名言として「知は力なり」とあるが、メーソン会員としてのベーコンの立場でこの言葉の意味を考えてみれば「知識」=「グノーシス」(ギリシャ語で知識を意味する。ローマカトリック教会はキリスト教内に存在したこのグノーシス派を弾圧した。その教えは仏教に似た部分がある)的神秘性を伴った「秘密の教え」を意味しているのではないか?と、あるいは「知恵」=ユダヤ密教である「カラバ思想」にある「人の意識の宇宙的広がりまでの向上」を目指す英知・・・を連想させはしないだろうか?。また、「死は我々の友である」といった言葉は同じくメーソン思想の拠り所となっている古代エジプト秘術による死生観(永遠の生命)を信じていたのではないか?・・・と想像してしまうのだが。 ・・・何れにせよ、このベーコンの登場によりメーソンは大いに発展してったといわれる。

エドワード7世(1841年11月9日 - 1910年5月6日)

 「インド皇帝」との別名を持つエドワード7世は、1868年12月20日ストックホルムでスウェーデン国王「カール15世」の手によってメイソンになり、1871年には「イギリス大連合ロッジ」の大棟梁に選ばれイギリス・フリーメーソン史で最高の栄誉に輝く人物となった。この当時イギリスはヨーロッパ地域に対する干渉、インド支配の確立等を通じその勢力は最高潮に達していた。彼自身が1901年に国王となってからは「フリーメーソンリーの王 」と呼ばれた。・・・だが彼自身がフリーメーソンの精神をよく理解し、ロッジ活動に熱心であったという話は聞かれないので、彼は単なるフリーメーソンの良き道具でしかなかった・・・という説もある。この王はドイツの血が半分以上混じっている母と純粋なドイツ人である父との子供であるのに、何故かフランスの「自由」を愛し、ドイツを嫌った!また彼の妻はロシア出身であり、多くの血縁者(ベルギー王、ブルガリア皇帝、ポルトガル王、デンマーク王、ギリシャ王、スペイン王)達は大半がメーソンであった。彼はこの血縁者達を通して「ドイツ包囲網」を目指していたという。・・・(ちなみにナチス・ドイツはフリーメーソンを敵視したが、その淵源はこのあたりの事情によるのかもしれない)しかし、ドイツ人は同じドイツ人の血を持つエドワード7世の反ドイツ的態度のその背後に、彼自身の意思とは異なる「何か」を見出していたのではないか?・・・ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は「「エドワードは悪魔だ。みな、どんなに悪魔かはわからないだろうが」・・・といった意味深な発言を残している。・・・

ここで、政治的な事柄ではありませんが、英国王室とフリーメーソンが関わった事件として、「切り裂きジャック事件」を取り上げて見ようと思う・・・

 「切り裂きジャック事件」・・・未だに現代にまで語り継がれている「猟奇殺人事件」であるが、この真犯人は一体誰か?あなたはご存知だろうか?・・・結論から言うならば、それは「フリーメーソン」に在籍する高位の会員である。では、具体的にどの様な人物だったのか?何とそれは当時のヴィクトリア女王の側近の侍医の「ウィリアム・ガル卿」だったと言われている。彼は堕胎医でありフリーメーソンリーだった。また、実際の犯行には彼の御者と別の誘拐犯が手伝ったという。当時この真犯人が見つからなかったのは、何と当時の警視総監チャールズ・ウォレン卿や副総監ロバート・アンダーソン卿らがこの事件に関わりがあり、この事件の犯人を隠蔽したためである。何故そうする必要があったのか?・・・それはこの2人の警察関係者もフリーメーソンリーであり、この事件は最初からイギリス王室や政府関係者が計画したフリーメーソン的「儀礼殺人」だったからである!・・・何ともおぞましい話だが、この事により彼らが「神」と呼ぶ者の正体がおぼろげながら見えてくるであろう。殺された女性は5人だが、この生贄にされた女性はメーソンの儀式に乗っ取った殺され方をしていたという。(詳しくはここで述べません)この「切り裂きジャック事件」について詳しく研究した「ステファン・ナイト」氏は「フリーメーソンは暴力、テロ、犯罪を称賛する。ただし、巧妙に実行される事が前提条件だ。」と述べている。

2.フランス王朝との関係

 イギリスで生まれた近代フリーメーソンが渡った最初の外国はフランスであった。ルイ15世の統治下であったという。1738年には早速教皇による破門令が出され、メイソンである貴族が王宮に出入りする事を禁止し一般国民も逮捕した。この事により、フランスでもメーソンリーは秘密性を高め地下活動も盛んになった。しかし、禁止令が出ていたにも関わらず高級貴族が次々と入会して1773年10月22日、シャルトル公爵によってフランス大東社(グラントリアン・ドゥ・フランス)が創立される。

フランス国王・ルイ16世(1754年8月23日〜1793年1月21日)

彼は早い時期から「メーソン」を自分の地位を脅かす存在として敵視していたが、国民の富を浪費する王族とそれを支え国土の10分の1を所有するカトリック教会に不満を持つ国民は多く、それら不満分子を上手く取りまとめ、精神的、政治的統一を与えていったのがメーソンであった。また、メーソンは本来ルイ16世を守るための「王の軍隊」にも潜入して多くの将校達をメイソン化する事に成功していた。つまり、王の軍隊は既に内部から崩壊していたのである。メイソンである多くの兵士は非メイソン部隊長の命令には従わず、むしろ群集と連動し新しい国民議会を準備した。この流れに対し宮廷は無力であった。そして、1789年フランス革命の象徴的事件である「バスチーユ牢獄の襲撃」が起きる。

ラファイエット侯爵(1757年9月6日 - 1834年5月20日)

同年の8月27日には、ラファイエットを中心とする指導的メイソン達によって「フランス人権宣言」が国民議会と国王によって承認され公布された。これによりフランス国民が主権者となり、王は国民の僕となった。教会の土地や財産は国有化され、全僧侶は公務員となった。

「フランス人権宣言」の標章。ここで注目してほしいのは、上の真ん中に光り輝く「ピラミッド」と見張り予見する知恵の目「ヤーヴェの目」である。・・・ここでもフリーメーソンの象徴的シンボルが克明に記されている事に留意してほしい。

 このフランス革命の標語であり、ラファイエットが考案したフランスの3色国旗が示す「自由」「平等」「兄弟愛」は革命が起きる49年前にフランス大ロッジで「フランス・フリーメーソン」の標語として採択されていたのである。この近代フリーメーソンの思想は先にも述べたように、イギリスからもたらされて来たので当然イギリスもこの革命を陰で支援していた。革命当時は群集の間にも、多くの金がばら撒かれたがその資金の一部はイギリス首相「ウィリアム・ピット」の指導する英国政府から出て来たという。英国政府にとってフランス王政の崩壊は自国の利益になると考えていた様である。(具体的にどの面で利益がもたらされるのかは知らないが、英国がカトリック教会の支配を拒んでいる事や当時からイルミナティの目的である世界統一政府の計画に共鳴して実行している輩がいる事に関連していると思うのだが・・・)

ナポレオン1世(1769年8月15日 - 1821年5月5日)

「ナポレオン・ボナパルト」、彼の生涯を賭した戦争と外交の目的も要約すれば「フリーメーソン」を通してやって来るイギリス勢力をヨーロッパ大陸から排除していこうという点に集約出来るのではないか?と考えたりする。・・・彼自身はメーソンリーではなかったが、父「カルロ・ボナパルト」はメーソンリーだったという。ゲーテの章で少し述べたが、ナポレオンはフリーメーソンの思想に近い自分の見解を持っていた様で彼らの人脈を上手に使い戦争に勝利していった。エジプトへの遠征も地元のメーソンの人間から手引きを受けて容易にアレキサンドリアの諸都市を占領していった。彼は様々な改革を断行していったが、その中の1つにカトリック・ローマ教皇の影響力を弱めようとした事が上げられる。この点についてはメーソンの目標と一致しており協力はし易かった。(しかし、イギリスという国家に対してはフランス国内の愛国心と軍事力を結集させ、対決姿勢をとり続けたのはご存知の通りである。)

自ら皇帝となり、皇后ジョゼフィーヌの戴冠式を行うナポレオン

皇帝に即位し、血縁者をヨーロッパ中の王にした彼は側近を全員メーソンにして自分の目や手足として利用した。・・・しかし、この時期からメーソン達は少しずつ離れていく。ナポレオン自身次の様にメーソンを評している。「フリーメーソンを保護してもよい。しかし、フリーメーソンに権威を与えると危険になるに違いない。今日、彼らは私に依存している。しかし、私はフリーメーソンに依存するつもりはない。・・・」しかし、当時の彼の軍隊は末端から頂点までメーソンの組織と重なり合っていた!・・・(この事を彼は知っていたのだろうか?)
ナポレオンの快進撃も1809年を最後にかげりを見せる様になる。この頃からヨーロッパ各地でサボタージュや反抗に遭い、軍隊内でも多くの裏切りが出て来た。その原因となったのが「メーソンがナポレオンを見限ったから」なのか?・・・著者はこの様に述べている。「メーソンの離反及び裏切りを、彼の敗北の諸原因の1つに数える事は全く正当であろう。フリーメイソンリーの役割を過大視しても、また無視してもならない。」

・・・結局の所、「フランス革命」と「フリーメーソン」の関係について考察していけば間違いなく両者には深い関係があり、下準備から実行段階まであらゆる局面においてメーソンリーの仕業と考えてよいと思う。私たちは少なくとも学校の教科書で学ぶ限りにおいては、「フランス革命」とは1つの政治形態の変化であり「ブルジョア革命」であったと考えがちだが、より本質的な部分に目を凝らして見ると次の様な事が解る。・・・(本書内より抜粋します)
(フランス革命とは)「それまで 支配的であったキリスト教とは異なった、あるいはキリスト教に逆らう一種の神秘主義を伴っていた。18世紀の合理主義はある種の神秘主義を排除しないのである。多くの者は特に日本人はこの事を意図的に看過している。この神秘主義を提供したのがフリーメーソンリーなのである。」・・・中略・・・フランス革命が、この様な側面を持っていた事を見過ごしてはならない。この事は現代及び将来の歴史を理解する場合も当てはまるであろう。」
(だが、この神秘思想の土台となる教えが彼らヨーロッパ文明にあったのでななく、ユダヤ密教やエジプト神秘学、あるいはゾロアスター教も?といった「オリエンタル思想」から強い影響を受けている事を見逃してはならないと個人的に考えています。・・・)

3.ロシア・ロマノフ王朝との関係

エカテリーナ2世(1729年4月21日 - 1796年11月6日)

 ドイツ出身のこの女帝がフリーメーソンを容認した結果、多くのロシア貴族や政治家等がメーソンに入会した。しかし、フランス革命の勃発に警戒心を強め1794年にロシア内にある全ロッジを閉鎖させたという。
その後、彼女の息子・皇帝パーヴェル1世は母親に習い1797年にメーソンを厳禁とするが、1801年に暗殺されてしまう。この暗殺に関わったのは全て皇帝を取り巻く側近達で、実の息子でアレクサンドル1世も加わっていた!そして全員がメーソンリーであったという。どの様な政治的対立があったのかと言うと、パーヴェル1世はイギリスの支配下にある「マルタ島」をエジプト遠征途上で同島に寄ろうとするナポレオンの地中海支配の拠点にして、ナポレオンと共同して英国の制海権を打破しようとした。そこで、親英派であるメーソンリー達は「皇帝暗殺」という形でこれを阻止したのである。イギリス政府は邪魔な皇帝を人間(メーソンリー)と金を使って取り除き、ロシアの外交政策の方向転換を図ったのであった。・・・果たせるかなその後ロシアはイギリス政府の全ての要求を受け入れ、新皇帝・アレクサンドル1世が逆にフランスに戦争を仕掛けるという形になった。この暗殺事件は決して「自由を抑圧する独裁的皇帝」からロシア国民を解放するためではなく、イギリス帝国主義の保護、拡張のためだったと考えてよい。

ニコライ2世(1868年5月18日〜1918年7月17日)

ロシア帝国最後の皇帝・ニコライ2世の時代になると、フランスのメーソンの援助を得てロシア国内にはモスクワ、ペテルブルグ、キエフ等、に50近いロッジが創設された。しかも、彼らメーソンリーの中には帝政国会の議員達が大勢いて既に皇帝の膝元には反君主制の波が押し寄せていたのである!そして、1917年のボリシェヴィキ革命の際はフリーメーソンの指導的グループである「イルミナティ」が支配する金融グループから多額の資金援助があり、レーニンやトロツキーらがロマノフ王朝を崩壊させる手伝いをしている。・・・

結局、近代フリーメーソンとヨーロッパ王朝との関係を政治的視点で見るならば、イギリスのヨーロッパ大陸への干渉であり、政治的影響力の強化、引いては英国中心の保護貿易網の拡大であり、メーソンの活動は確かにそこの国の民主化や自由啓蒙思想を広める推進力にもなるが、その活動資金等を英国が援助という形を取るので君主体制が崩壊した後は英国にとっての傀儡体制の様な国になる可能性が高いと言わざるを得ない。(実は日本がそのいい例である。)

日本とフリーメーソンの関係

マシュー・C・ペリー(1794年4月10日 -1858年3月4日)

江戸時代末期に鎖国をしていた日本に黒船で浦賀沖に現れ、開国を要求したこのペリーがフリーメーソンであった事をアナタはご存知だろうか?日本に来た時はメーソン暦34年の古参者でニューヨークの「ホーランドNo8」というロッジに所属していたという。しかし、「自由」「平等」「博愛」といったモットーを掲げていた割には我が国に対して貿易上の不平等条約を突き付けてきたのだから、本当に公正なるメーソンリーなのか?と疑いたくもなる。・・・

トーマス・グラバー(1838年6月6日 - 1911年12月13日)

 トーマス・ブレイク・グラバー、このスコットランド出身の英国人が長崎に住居を構え幕末から明治維新へと時代の転換を成し遂げた日本に対して、とても大きな役割を果たしている最重要キーマンである事は間違いない様である。※2 彼が長崎にやって来たのは弱冠21歳の時、その目的は何か?一口に言えばビジネスである。彼は「ジャーディン・マセソン商会」という当時の清国に対し「アヘン貿易」で莫大な利益を得ていた巨大な英国商社の代理業の資格を得る。

明治のマセソン商会の横浜支店の社票

だが、ここで1つの疑問がある。それは何故この名家に生まれた訳でもない、親がこの名門商社に勤務している訳でもないのに、1平凡なイギリス人の青年が代理業の資格を得る事が出来たのか?考えられる事は1つしかない。グラバーは仕事の「コネ」と「人脈」を得るためにフリーメーソンに入会したのだ。それはグラバーの出身地がメーソンの影響が強く歴史も古い「スコットランド」であるという事と、彼の父親が英国海軍で中尉の階級を得ていた事による。つまり、当時のイギリスやアメリカ、フランスは「軍隊ロッジ」と言って軍に所属している人間はメーソンに入会してる者が多く、メーソンリーになる事により回りの軍人達からも信頼されやすく、また出世もしやすかったという。・・・この様な状況から考えてグラバーは父親に倣いメーソンに入会して新たにビジネスを展開すべく、日本にやって来たと考えるのが道理だと思う。 さて、そこでグラバーが長崎にやって来た当時メーソンの組織(ロッジ)は存在していたのか?・・・という疑問があるが、何ときちんと存在していたという。(オランダの博物館にその証拠が保存されている)彼が日本で仕事をするための下準備はすでに整っていたのだ。・・・

五代友厚(1836年2月12日 - 1885年9月25日)

 五代友厚、この薩摩藩士が幕末の倒幕の志士として歴史に名を残したことは確かであるが、この彼がグラバーとただならぬ関係を持っていた事はあまり知られていない。五代は若き頃、薩摩藩が海軍近代化の戦略を学ぶために幕府が長崎に設立した「海軍伝習所」に派遣されていた。その後、海軍伝習所は幕府の意向で閉鎖となり五代は一旦、郷里の薩摩に帰る。だが、再びある藩命を受けて彼は長崎にやってくる。・・・それは「薩摩藩海軍力強化のために外国船を輸入する」事だった。ここからグラバーと倒幕の志士達との繋がりが出て来る。五代は2隻の外国船の斡旋を依頼、グラバーは快く了承している。この両人の繋がりはまた、薩摩と英国とのラインであった。五代27歳の頃からグラバーという後ろ盾を得て、藩内でも出世街道を歩んでいく事になる。

グラバーは勿論日本でのビジネスチャンス拡大のためにメーソンにも入会して、ジャーディン・マセソン商会とも懇ろな関係を保持していたのだろうが、メーソンの狙い(英国政府の狙いと言ってもいいかもしれない)は経済的な目的だけに終わらない、「政治的影響力の強化 」(自由、平等、博愛のメーソンのモットーを広める事)が終始付きまとう。・・・つまり、グラバーのもう1つの狙いは「倒幕」だ。身分制度の厳しい日本の封建社会を改革し、メーソンの思想を広め自由貿易の枠を拡大する。(と言っても、英国の保護貿易の姿勢は変わらないが・・・)その為に、幕府はどう考えても邪魔な存在である。その倒幕を可能にするために薩摩や長州といった幕府の外国貿易独占に対して不満を持っている藩に対して、武器を買わせ力を付けさせる。・・・グラバーやメーソンにはそんな計画があったのだろう。また、グラバーは能力の高い、弁舌の才能に長けた倒幕の意思を持つ若者を自分の「エージェント」にスカウトする役目も担っていたのではないか?と推察できる。

坂本龍馬との出会い

坂本龍馬(1836年1月3日) -(1867年12月10日 )

土佐藩の志士であり、「薩長連合」の立役者であるこの龍馬もグラバーと関わった人物として浮かび上がってくる。龍馬が初めてグラバーと会ったのは1864年の初頭だったという。当時グラバー28歳、龍馬31歳であった。龍馬は「神戸海軍操練所」に所属していたが、そこでは外国に対する諜報活動も行われていた様で幕府側の人間である勝海舟に見込まれ、幕府の隠密士になり土佐藩の密偵もこなすという2重スパイの様な事をしていた。グラバーと会った事により龍馬は抗しがたい運命に飲み込まれていく。
先ず、龍馬が設立したとされる「亀山社中」だが、実際にはグラバーが長州藩に対して銃と軍船を売る為に設立した「ダミー会社」であったという。何故、ダミー会社を作る必要があったかと言うと長州藩には藩士を武装させたい意思はあるのだが、この時期「下関砲撃事件」があり、英国と幕府により経済封鎖が敷かれており密貿易さえままならぬ状態であった。そこでダミー会社をつくり、そこの責任者に龍馬を当てがったのである。(当然、何かあった場合グラバーには火の粉が及ばない仕組みがあった事は容易に推察出来る)この様にして、あらかじめグラバーが確保してあった約7000丁の銃が亀山社中の名目で長州藩の桂小五郎、伊藤博文 に渡されたという。・・・
 尚、「薩長同盟」を龍馬が上手く取りまとめたのもその背後に 龍馬はグラバーの密使だった。という背景がある。つまり、この同盟の真の立役者はグラバーであり、メーソンが深く関わっているのである。

伊藤博文(1841年10月16日〜1909年10月26日)

この吉田松陰の松下村塾に学んだ事もある長州藩士も、やはりグラバーとの関わりを持っていた。どの時点で関わってくるのか?それは、長州藩の代表としてロンドン留学生として英国に潜り込む様になったその前後ではないか?と言われている。(しかし留学生と言うと聞こえはいいが、 実際には英国の下僕となるべく訓練を受けるための密航であったと考えるのが道理であろう。・・・そう推論出来る様な事実が色々ある。まず、この時期長州藩は朝廷に「攘夷」を誓い藩の伊藤博文や井上馨といった下級武士にわざわざ多額の費用を掛けて、英国に留学させるなど常識的に考えてもあり得ない話である・・・という点が1つ,さらにその留学費用がべらぼうに高く1人当たり1000両、現在の金額にして約1億円という高すぎる金額であった事が2つ、・・・長州藩からは5人の若者が英国に旅立っているが、合計すると5億円もの費用を下級武士であった彼らに藩がお膳立てする訳がないのである。では、この留学費用を用意したのは一体誰か?・・・それはこのトーマス・グラバーと「ジャーディン・マセソン商会」が負担したとしか考えられないだろう。ただし、それには条件を提示した筈である。
1つはあくまで「攘夷」ではなく倒幕開国の先兵として活躍してもらう事
2つめはその倒幕の為の藩の軍事力増強の手段として、軍艦や大砲、銃等をマセソン商会を通して購入する事、(この様に契約しておけば、5人分の留学費用などすぐに元が取れてしまうのである・・・・・)

ロンドンに留学した「長州ファイブ」後列左・遠藤勤助、中央・井上勝、後列右・伊藤博文、前列左・井上馨、前列右・山尾傭三・・・彼らは維新後、全員が政財界の要職に就いた。・・・

・・・さて、グラバー達は倒幕と自らの商圏拡大のために多くの布石を打ってきた訳だが、1866年3月16日のこの日に遂に英国の「本音」とも取れる「ジャパン・タイムス」という横浜で発行している英字新聞に衝撃的な「警告」が出される!
それは英国と幕府とのやりとりを振り返りながら幕藩体制を批判する内容ではあるのだが、約束した兵庫開港期日が遅れる場合「イギリスは強制と流血の手段に訴える」と恫喝したのだ!この内容を書いたのはグラバーと密接な関係を持っていた英国領事館の日本語通訳「アーネスト・サトウ」だったといわれる。英国紳士という穏やかなやり方ではなく、遂にその牙を剥いてきたのがこの年だったのである。(そして、実際に開港期日の1868年にはあの「大政奉還」が起こり、江戸幕藩体制は終わりを告げるのである。)
また、この年の4月26日には当時の英国外務次官からパークス在日公使宛に「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発している様に見えなければ(見せなければ)ならない。」という意味深長な書簡を送っている。
・・・つまり、日本人にとってのあの「明治維新」とは憂国の危機感を持った若き進取の意思に富んだ若者たちによって積極的に断行された「政治革命」というよりは、英国やその支配者層に広く浸透していた「フリーメーソン」達による半強制的な内政干渉であり、旧体制の転覆であり、半属国化への起点を作った出来事・・・と表現した方が的を得ていると思うのだが、どうだろうか?

日本の近代化(英国の属国化)に関わったフリーメーソンリー達

「ウィリアム・キンダー」・・・大阪造幣局の造幣首長として8年間日本に滞在、日本の紙幣経済の基礎を作り、指導に当たった。
「E・フィッシャー」・・・神戸港の開発に色々尽力したドイツ人。
「ウィリアム・G・アストン」・・・文学者であり、外交官でもあった。日本文化を西洋に紹介した英国人。
「ウィリアム・H・ストーン」・・・通信技術を紹介、指導した英国人電信技士
「エドワード・H・ハンター」・・・英国人造船技師

・・・この他にも様々なメーソンリー達が来日して色々な分野に影響を残していったと思われる。(例えばキリスト教の神父も表面上はキリスト教徒を装っていても、実際にはメーソンリーであったという話は良く聞く) 

以上、見てきた様に日本の近代の歴史を語る場合には「フリーメーソン」の影を見ない訳にはいかないのである。そして、この事実は太平洋戦争終結の際にも再び認識させられるのであった。・・・・・

戦後、日本を統治したメーソンリー達

ハリーS・トルーマン(1884年5月8日 - 1972年12月26日)
ダグラス・マッカーサー(1880(明治13)年1月26日〜1964(昭和39)年4月5日)

アジア民族の列強からの解放という謳い文句を掲げ、米英国に対し戦争を挑んだ日本であったが敢え無く敗戦、GHQの占領下に入ったわけだが 時のアメリカ大統領はかのトルーマン、連合軍最高司令官はマッカーサー、この両者共にフリーメーソンリーだった事は興味深い。特にトルーマンは第33位階の最高位メーソンリーだった。(広島、長崎に原爆投下の意思決定を下したのも彼だ)マッカーサーは日本の占領政策において万般の決定権を持ち、特に「日本国憲法」の制定に深く関わっているが憲法内で謳われている「自由」(思想、出版、宗教等・・・)や「平等」の基本理念はメーソンの理念に合致したものである事は、容易に推察出来る。他にもメーソンリーだったメンバーとしては、GHQの冶金課(戦中に日本軍部首脳たちが秘かに貯えていたダイヤや貴金属を没収する役目も担っていた様である。)のジョージ・I・パーディ氏らがいる。氏は戦後貿易会社を起こしたり、原子力関係の会社を起こしたり事業家として富を残した。特に原子力産業は大戦後のアメリカの重要な国家戦略に絡んでいて、そのビジネスにおいても氏が「メーソンリー」であるという事実は様々な人脈作りにおいて、重要だった思われる。

アメリカが戦争手段としての「核」を経済分野に拡大、核技術の独占とエネルギー支配、さらに利潤追求という一石三鳥を狙ったのは昭和28年からで時の大統領は「アイゼンハワー」(彼はメーソンリーではない)、同年に国連で原子力平和利用のための国際機関の設立を提案して燃料の低濃縮ウランをアメリカが提供すると発表した。この提案は技術、エネルギー共にアメリカへの依存度を世界的に高めるという狙いがあった。何故なら、当時アメリカは他国の追随を許さない程の「ウラン濃縮技術」を確立していて、この独占技術である濃縮ウランを使った原子炉を世界各国へ普及させれば原子力発電=エネルギーをコントロール出来て、さらにプルトニウムの抽出も抑える事が出来る(つまり、プルトニウムを使用した核兵器の拡散も防止できる)二重の効果が望めた。
この低濃縮ウランを使う原子炉を開発中だったのが、ゼネラル・エレクトリック社(GE)とウェスティングハウス社(WH)という大企業だった。そして、このアメリカの提案を早速受け入れたのが日本である。1960年代以降は官民挙げて原子力開発に邁進して行き、先のバーディー氏の原子力関係の会社(名称はドレッサー・ジャパン)もこの時期に創業されている。
しかし、このアメリカが引いた原子力エネルギー路線とは違う路線を構築しようとした政治家が現れる。

田中角栄(1918年5月4日〜1993年12月16日)

 一般的にはロッキード事件により失脚したと言われているが、実は田中元総理が政治の表舞台から消えた本当の理由はこの、アメリカが掲げた原子力エネルギー路線からの脱却を目指したため・・・と当時のマスコミ関係者達は認識していたという。
すなわち彼はGE,WHの2大企業が日本での利権を分け合いつつある中、丸紅商社を通じカナダから「キャンドゥ」と呼ばれる天然ウランを使う重水型炉の導入を計画し、ウランもオーストラリアから調達しようと交渉を進めていたという。その行為はアメリカの原子力産業に関わる企業の多大な利益の損失に繋がる。・・・そこで、先のGEの資本主である「モルガン財閥」、WHは資本主の「メロン財閥」という国際金融資本家達のグループの画策により、田中元首相は政治的に排除されたという。・・・
・・・国際金融資本家、彼らこそ実はフリーメーソンの指導的上層部である秘密結社「イルミナティ」に所属している人間が存在しているのだが、実際に見ていくと「モルガン財閥」ならその背後には「ロス・チャイルド家」が控えているし、「メロン財閥」なら「デュポン家」が関係している!この2つの巨大な資本力を持った名家は、婚姻により血縁を深めたり、企業グループで提携したりと互いに支配的な立場を共に存続出来るように努力しているようだ。
田中元総理の計画はこの両家にとっても望まぬものであり、また、このイルミナティ達は(イルミナティについてはvol.11のコーナーで解説します。)日本の総理さえも簡単に失脚させる事が出来る存在なのである。・・・・・

以上見てきた様に、秘密結社「フリーメーソン」は結成以来(主に英国の世界支配を主導する為の目的と常に連動しているが)世界のあらゆる政治局面、経済活動において表面には出てこないが、紛れもなく隠然とした「支配力」、「実行力」を保持しているのであり、この事実を知らなければ「世の中で起きている様々な出来事」の本当の意味、権力者・為政者の狙いが見えず、また敷衍して言えば、マスコミ(実は大手であればあるほど、イルミナティの金融資本グループに支配されているのだが)による都合のよい「洗脳」に染まってしまう可能性が高いといえるのではなかろうか?・・・

・・・この「フリーメーソン」の入会の秘密の儀式について、若し他言無用の誓約を破った場合は「咽頭を切り裂かれ、舌を根元から引き抜かれる・・・」という。
どうであろう?本当に「自由」「平等」「博愛」を謳った紳士的な「慈善団体」(当の本人達はそう言っているのだが)がこの様なおぞましい罰則を設けるか?・・・少し考えれば解る事である。

最後に本著作者の言葉を持って解説の終わりとしたい。 
「歴史には幾層もの陰謀が蠢いているのであって、歴史は教科書風に進行しているのでは決してない。フリーメーソンリーを研究すれば、歴史や思想の複雑な裏面を覗き見ることが出来るようになる。
 現在、フリーメーソンリーはもう秘密結社ではないという風説が結社の内外から流されているが、それは真実ではない。世界ではますます流行して、隠密性を帯びている。
風説や常識をにわかに信じない事、これが本書の警告である。」

参考文献

「フリーメーソンの操心術」・・・この秘密結社が表面上どの様に社会に上手く溶け込んでいるかを、痛烈に批判を込めて書いている。著者によれば、「カルトの指導者とは仰々しい格好をしているのではなく、普通にスーツ姿で上辺だけの慈善を説く者たちにこそいる。」とあった。

「あやつられた龍馬」・・・「明治維新」の本当の姿を知りたい方は必読です!メーソンの体制転覆の巧妙な仕掛けには感心するしかありませんが、国家の独立性とは何か?という部分では歯痒い感じがします。

「日本に君臨するもの」・・・主に戦後のGHQ支配体制によるメーソンの影響力や問題点、さらに先の「金融ビッグバン」に関する情報としてここでもメーソンの支配力が日本に対して行使されていた事を論じている。

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